今のゼミナールについて

今のオサダ・ゼミナールは長田英吉

長田英吉が1960年代に始めたSMサークル。その舞台はアンダーグラウンドの芝居であったりストリップ劇場の前座であったりした。そして当時モデルだった長田一美が後を継ぐ形で現在に至る。

主宰 緊縛師 長田一美(OSADA KAZUMI)

kazumi

設立の経緯

「長田一美」はかなり苦しい中、生まれた。 もともとは普通のOL。趣味(性癖)が高じて師匠のモデルをしたりしていた。新宿三丁目にあったお店で毎週金曜日の晩に行われていた師匠のショーが終わるとき、私の勤めていた会社が不景気でリストラをはじめた。入社した時は人情に厚く、企業家族というのが信じられるような、そんな会社だった。それだけに 本当にこんなことが・・・と、思った。自縛ショー

その頃、オサダ・ゼミナールは新橋の事務所を閉鎖した。閉鎖する1年くらい前から稼動してなくて、木造家屋でできた印刷所兼用のたてものの2階は他に2つの会社が一緒に入っていた。入口の鍵は師匠から渡されていたけれど、ゼミナールの部屋の鍵は隣の会社が握っており。と、いうのも家賃の支払のため隣の会社に場所を貸していたためなのだが最後の頃は隣の会社も不景気で借りるのをやめてしまい。そして、師匠も家賃を払うのが困難になり私が10ケ月だったか1年だったか家賃を払っていた。

それは、私に収入があるからこそで。三丁目のお店でのショーが打ち切りになると、師匠の収入はまったくなく。半年ばかり前に新橋の事務所を閉じた荷物の一部を私が預かっていたこともあって、それをどうしょう・・・とも思った。実家に帰るようなことがあったら、預かったものはどうしよう。私も置場所はないけれど、師匠だって自宅に置きいれないからこそ私のところへおいているわけだから。

三丁目のお店のショーが終わって 途方にくれた。師匠はステージをやることだけが生きがいという方で、ショーができなくなることがなによりツライという方で。リストラで会社とやりあってる最中に、ショーができなくなると騒がれるのは本当にきつかった。師匠も私の事情は知ってはいても、まずショーができないことが一番ショックだった。私も、師匠とショーができなくなるのは寂しかったし。なんとか続けたかった。

六本木のお店でしばらくショーを続けることができたけれど、それも長くは続かず。歳のせいで断られてしまった。(その2−3年前から、師匠のショーにはロープ使いがみだれたり、ときたま怪しいところはあったのだけれど。これで、事故ってもあきらめよう。そんな気持ちで一緒にやっていた) そして、再びショーをやる場がなくなった。

路上でパフォーマンスしてる人たちがうらやましかった。彼らは警察とのおいかけっこがあるとしてもゲリラ的にやることができたし。それが縛りとなると、そうはいかず。師匠は昔の知り合いがやってる新宿の店を陸橋の上から見たりしていた。たずねていったこともある。しかし、ショーをしたいから場所を貸してくれとも言えずにいた。上野の劇場に一緒にいったこともある。劇場の支配人は師匠の気持なんてわかるはずもなく、お土産を持って遊びにきたと思ってただろう。それは名古屋の劇場を一緒に訪ねた時も同じで。出たいのだけど、といいたくてもいえない性格で。見てるとイライラするぐらいだった。

しかし、それをいうと 私の知らないしきたりや何かががあって・・・というように口を出すな、で。難しかった。素直な性格だけに、人から言われたことはすぐに信じてしまうので私のことを怪しいヤツで、何か狙ってる人といわれると急にヨソヨソしく冷たくなったりもした。それでも、ショーの話、まとめられるなら、まとめてくれと言ったこともある。私自体は会社との軋轢で、ゆとりはなく。 

そんな新宿三丁目のSMパブでのショーが終わったとき、六本木のSMバーでのショーが始まった。しかし、長くは続かなかったので、池袋へ移った。そして、土曜だけ借りてた そこも半年後、資金繰りのためスタジオをとじることになったと持ち主に言われた。再び、私たちは場所を失った。私の方はというと、会社と「解雇」をめぐって争っていたし、今のスタジオを借りても、本当にいつまで家賃が払えるかわからない状況で。それでも、思い切って 今のスタジオの場所を借りた。いつ失業するか、いつ払えなくなるかわからない。そんな中にいた。

金粉ショー

不動産屋も そんな私たちをみて、怪しいことに使うのだろう。場所がどうしても欲しいようだと、当初いっていた家賃が契約の時になって急に値上がりしてたりした。 条件も不利に変わっていた。それだけ、師匠がはしゃいでいた。本当は私は借りるなんて大胆なこととは思っていたが、今、師匠からショーという生きがいをとりあげたら、スグに死んでしまうだろう。そんな不安があったからこそ、思い切った。そうはいっても、先はみえなかった。 本当にいつまで払えるんだろう。

師匠のほうは私がスタジオの家賃を払うことで安心したのか 、たまたま来た女性を縛るとモデル代を払えと私に言って。ある意味、お金は天から降ってくるのでは・・・の感覚の方で。いつ失業するかもの私には余計負担だった。 

スタジオを開いて3ケ月と少しで、師匠は自宅で倒れて入院した。約10年前に脳梗塞で倒れており、血流の状況次第でうまくしゃべれたり、しゃべれなくなったりするような症状が続いた後のことだった。心配になって、一緒に病院にいったこともある。どうにかして欲しくていったけれど、それが 今までと同じ薬でと片付けられたり、診察を断られたりで どうにもできなかったのが悔やまれる。 

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あの時に、治療できていたら倒れる前になんとかなったのではないかと今でも思う。健康保険証は奥様がもっており、私自体はどうすることもできずにいた。師匠にはお金がなかった。スタジオを開いたときにも 師匠の収入については すごく心配だった。持ったら使う人である。だから、貯金なんてほとんどないだろう人だったし。師匠が倒れて、不在の間いろんな方々が手伝いに来た。手伝いに来るといってこなかった方もいたし、遊びに来たコを口説いてホテルに連れて行ってしまう方もいて、それでは まずいということで私がやろうと思った。とはいえ、当時の私には今みたいな腕はない。縄師になろうとして生きてきたわけじゃないから、縛りは積極的に覚えようとも思っていなかった。他の人は師匠と一緒にいたから 自動的にできるようになったと思ってる。実際のところ、私がなるという決意をしたところで、それを師匠の許可をもらったところで、ほとんどゼロから出発してプロになるのは絶壁を登る心境だった。

ただ、絶対にやりとげなければならない。ゼミにこもるように縛り続けた。スタジオの中で縄を操っていると、まるで、自分は蚕になったんじゃないかとそんな暮らしが続いた。会社との争いは続いていた。それでも、少しでも時間をかせいで、勉強しなければと思った。サポートに陰ながらきてくれた縄師さんなど何人かいて、ようやくひとり立ちした時。師匠はなくなった。ようやく少しでも緊縛師として収入が得られるようになったのに。私の緊縛師としての最初の収入は師匠の香典になった。そんなわけで、長田一美は生まれた。 

師匠流のステージの再現を目指して、まだまだ勉強中だけれども、いつか 師匠のようなステージをと思って修行中である。縄師の中の一人として数えられるようにはなったけれど、まだまだ頑張らなくてはと思う。

これが私が緊縛師になったいきさつである。
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所在地 東京都池袋
連絡先 携帯 080−5002−3022

 

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