長田英吉年表

長田英吉先生 年表

(年月が不明のものもありますが、年代順と思う順に記載しました)

  • 1925年3月15日 栃木県生まれ
  • 1965年  オサダ・ゼミナール設立
    阿佐ヶ谷駅前にあるバレエの練習場(アルスノヴァ)にて初会合。古い会員さんたちから聞くと、いつも満員で立ち見だったといいます。桜田伝次郎氏もよく手伝いにいったといいます。暗く落ちついた雰囲気の場所でSM向き。楽屋は舞台の上にありポッカリと空いた穴から舞台に登場するような場所とか。開演前までは空いてるのに始まると急に混んだとか。くる人はそのヘンで時間をつぶしながら様子をうかがい、パッと入ってくるのだとか。アンダーグラウンドな趣味だけに人目につかないようにしてたらしい。
    六本木の自動車工場の2階の玉井敬友氏のところでイベント。ここで桜田伝次郎氏ははじめて玉井氏と出会ったとか。窓ガラスが汗をかくほど人が集まってやってたといいます。
  • 西荻窪の世界劇場(GSG準備室) 桜田伝次郎氏とイベント
    この頃は長田先生と桜田氏はお互いのイベントを相互に手伝っていたとか1年以上そんな関係が続いたといいます。
  • 1970年 神田駅北口近くの麻雀屋「ロータス」を経営
    約2年ほど存続。(麻雀屋をはじめた動機に机を外に出せばSMサークルにも使えると思ったからといいます。当時、SMの会合を開く前に縛られるのが好きなコが来ていたので1日中ずーっと縛っていたといいます。その横で先生が会の準備をしてたとか)
  • 1980年6月5日オープンした年の10月から毎月イベント
    初代葵マリーさんのSMクラブ(ブルーシャトー)。1984年から年4回のイベント。1988年にブルーシャトーが閉店する3ケ月前まで8年間続きました。そこで先生はアルファインで女性2人を一度に縛ったりするようなショーをやってました。また、女王様などに縛り方の講習をするなど。当時、ブルーシャトーには北条小夜子女王様も在籍していました。
  • オサダ・ゼミナールイベント
    向島百花園のあたり、次ぎに上野の熱海亭(和風旅館)、その次ぎが蔵のある和風旅館(東京都文京区にある旅館 札幌)でイベント。佐土魔造氏も来てました。
  • 1978年頃劇場に進出 初公演は渋谷の道頓堀劇場
  • 1982年〜1983年 ラー企画(赤坂見附) 根暗童子さんとラー企画所属のモデルさんたちと地方公演
    長田先生のお気に入りのモデルさんの あかねさんは1982年より前から先生とショーをやっていた。この頃、六本木のSAMMSMパブ(高級会員制SMパブ・・・賀山茂氏経営)にてSMショーをやっていた。SAMMは入会金10万で、SMの世界での著名な人たち 団鬼六氏とか来ていたといいます。ムード満点のところだったとか。森美貴さんと共演(初めは郡山ミュージックであかねさんの代わりに1日だけからスタート)、本格的には池袋スカイ(現在の池袋東口のビックカメラのあたりにあったといいます)森美貴さんと長田先生のショーは初めに森美樹さんがOLなどの姿で登場し オナニーして、自縛したのちに長田先生が登場するスタイルだったといいます。当時のストリップ劇場は深夜営業で踊り子さんは1日に6回やってたそうですが、SMは5回だったとか 深夜営業の映画館と同じ感覚でお客さんは一晩中いるようなところだったらしい。森美貴さんの自縛ショーは長田先生が考えたといいます。(現在ストリップ劇場でのSMショーは20分ぐらいですが当時は40分が普通だったと長田先生が云ってました)森美貴さんとは都内での公演が主で、地方公演はあかねさんなどラー企画所属の方とだったとか
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  • 1984年 映画「オーガズム」撮影
  • 1986年〜1989年  早乙女宏美さんとSMショー
    1ケ月に2回(1回は10日間の興業)の公演を3年ぐらい。早乙女宏美さんに出会ったのは新宿東口にあるじゅらくの2階だったといいます。ヌードモデルプロダクションの藤木正夫さんの紹介で会った早乙女さんは童顔でとてもモデルさんだとはおもえなかったと語ってました。その頃(1983年から1986年の間だったかも)、藤木氏の紹介するモデルさんで撮影会を開いていたといいます。
  • 1989年12月21日〜31日 引退興行 鶴見新世界にて(早乙女宏美さんと)
  • 1990年5月28日 ル・ピリエ(池袋)で早乙女宏美さんのイベントの手伝い。出し物はサロメだった。
  • 1990年1月2日〜6月頃まで 鶴見新世界(ストリップ劇場)社長
  • 1991年 春頃〜1992年10月 船橋若松劇場(ストリップ劇場)社長
  • 1991年10月20日 21時頃 船橋若松劇場で脳溢血で倒れ入院。12月頃まで
    左半身が動かせず 話せない状態から 縛れるようになることを目的にリハビリに励み復帰。(この日の夕方、(小澤一美(=長田一美))を縛ろうかって誘ってくるぐらい元気だった。入院中、よく病院を抜け出して縛りにでかけてた。それが一番のリハビリだったかも知れない。)
  • 1993年6月3日(木曜)大塚のホテルCoCoの1階にSMパブ「ブラック&ホワイト」オープン
    オープニングパーティでSMショー(早乙女宏美さんと)顧問として2ケ月ほど在籍するとともにSMショーを展開。
  • 1993年11月〜12月28日 渋谷のパブ「doga」にてSMショー(小澤一美(=長田一美)と)
    カウンター式のパブの奥のコーナーにパイプを組んだ。畳1畳もないぐらいのスペースでのショー。パブの額縁の中でやるショーみたい!! とオドロキつつ。日本一狭い舞台として話題になるかもといいながらやっていた。
  • 1993年12月 京都のSMクラブ「薔薇十字館」にてSMショー。
  • 1994年4月20日(水)大塚のホテルCoCoのSMルームにて週刊大衆の撮影(モデル小澤一美(=長田一美))
  • 1994年10月1日〜10日 渋谷 道頓堀劇場でSMショー
    久々の舞台、モデルさん探しに苦労した。舞台をやりたくてもモデルがいなければ出演できない。ようやくモデルがみっかった時、電話の向こうの喜びのがヒシヒシと伝わってきてた「ありがとう(これで舞台に立てる)。恩にきる」と。この公演は大入り袋が出るほどの盛況だった。
  • 1994年11月21日〜30日 渋谷 道頓堀劇場でSMショー(葵瑠璃さんと)
  • 1995年1月21日〜31日 上野スターでSMショー(桂木綾乃さんらと、モデルは交代で出演)
    モデル候補が3人。出演したのがそのうちの1人プラス別の2人というめまぐるし さだった。
  • 1995年2月か3月の10日間 新宿DX出演
    前日の朝、5時まで舞台稽古。外に出ると雪まじりの雨が降ってた。
  • 1995年4月11日〜20日 池袋ミカドでSMショー(篠崎花さんと)
    吊りの写真をバーンと宣伝用に飾りたいという劇場側の希望があったものの、吊りのできないモデルだったため、吊るしのないショーだった。要望があっても、モデルに合わせるのが長田先生流だった。そして、SMショーというものは他の踊り子さんからは嫌われる。 垂らしたローソクで足を滑らせるのが危険だからなのだが、楽屋でのモデルさんはすごく肩身が狭かったらしい。(とはいえ、大先生に文句をいう踊り子さんは皆無で、ホコ先はモデルさんへと向かうのだとか)
  • 1995年7月11日〜20日 新星DX伏見(京都)で名古屋のSMクラブアマンと共演
    (如月志乃さん、夕日茜さんと5日間ずつ)SMショー
    京都の昔の遊郭のあった場所にあるストリップ劇場とか。京都駅から車で何分というところなのだが 付近は田んぼだらけで、飲食店もない。そのためか劇場では賄い付き、おかずを買い求めにゆき劇場の台所でご飯をあさる。そんな感じだった。2階にある楽屋は広くて長い。少しよさそうな個室をあてがわれたのだが、長田先生は気前よくパートナーの女性に譲ってしまった。劇場が終わると、銭湯まで歩いてゆく。のどかだった。まるでSM合宿してるみたいだった。もっとも、舞台の時間の都合上、長田先生のショーが15分ほど、残りがM女モデルをしてた女性が女王様としてお客さんを上げてショーをするという不思議な舞台だった。
  • 1995年9月11日〜20日
    渋谷OSでSMショー。モデルさんでは苦労した。SMショーは相手がどこまでできるかで決まる。モデルさんにおうじて対応する長田先生のこと、かなりたいへんだった。
  • 1996年6月〜10月 SMマニア(三和出版)に連載。
    半生記をSMモノとしてレポート。長田英吉の名前で出した。ゴーストライターは小澤一美(=長田一美)。二人で 一緒に書いた。
  • 1996年9月12日(木)新宿のSMパブ「ボンデージ」オープン 顧問として2ケ月ほど在籍
    オープニングパーティでSMショー(刹奈紫之さんと)マスコミの人で満員だった。パーティは昼の部、夜の部とあった。
  • 1996年9月30〜10月19日
    新宿のSMパブ「ボンデージ」でSMショー(小澤一美(=長田一美)と)楽屋のないSMパブ。着替えはいつもトイレ。長田先生がさらしのフンドシを締めてくれていた。急遽、階段が楽屋になることもあった。夜9時か10時ごろ始まるショーではあったが、長田先生はたいがい昼頃にはパブの近くにいて準備にかかれる時間を心待ちにしていた。ショーのある日は自宅でゆっくりなどしていられない性格だった。早く家を出て、パブの近くで2時ごろまで待つ。「もう、いってもいいかなぁ・・」と小澤一美(=長田一美)に電話してきたりしてた。そして、ショーが終わると 近くのラーメン屋さんで水ギョウザを食べながら「もっと(ショー)やりたいなぁ」とつぶやいていた。早くも次の週のショーが待ち遠しい、そんな感じだった。
  • 1997年5月11日 大塚「ブラック&ホワイト」でイベント
    SMショー(如月志乃さんと)
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  • 1997年6月11日〜20日 船橋若松劇場でSMショー(早乙女宏美さんと)
  • 1997年7月1日〜10日 鶴見新世界でSMショー(早乙女宏美さんと)
    鶴見は長田先生が社長だったときに天井に吊りができるように作ってあったので泊まり込みの準備もせずに舞台に上がれた。慣れたモデルとなれた舞台だった。
  • 1997年8月21日〜30日 ショーアップ大宮劇場にてSMショー(早乙女宏美さんと)
    深夜に吊るすところを作り、稽古する。いつものパターンだけれど、やはり泊まりになった。ショーの途中、電球を割ってしまうというアクシデントがあったが 長田先生は敷物ごと電球のかけらを隅によせ、モデルの早乙女さんも何食わぬ顔で舞台を続けてた。ショーにはアクシデントはつきものだが、それに動じない心も必要なのかもしれない。
  • 1997年10月1日 オサダ・サークル 新宿区若松町でショー(小澤一美(=長田一美)と)
  • 1997年10月21日〜31日(24、28、30休み)鶴見新世界でSMショー(早乙女宏美さんと)
  • 1998年7月27日(月) 新宿 ロフトプラスワンにてSMショー(早乙女宏美さんと)
    夕日茜さんの緊縛ショー
  • 1998年8月21日(金)〜1999年9月24(金) 新宿のSMパブ「ボンデージ」でSMショー
    毎週金曜日21時からSMショー(1998年10月16日から小澤一美(=長田一美)と、その前はお店の女のコと)
  • 1999年7月11日〜20日(数日間出演)(早乙女宏美さん、いずみゆきこさん、小澤一美と)
  • 7月17日(小澤と)出演中に舞台から落ちて公演中止
    (しばらくの間 頭が傾いたままになるけれど、ボンデージのショーは休まずに続けてました。舞台から落ちて、すぐに立ちあがり舞台を続けた。次の舞台も続けるつもりだったが、劇場の社長に病院にいくように言われたのでシブシブ出かけ、早く舞台に戻りたいようだったが 劇場側から公演の中止を言われてしまった。まわりにいた踊り子さん達からは一足先に、楽日をむかえちゃったのねとなぐさめられていたけど、すごく残念そうだった。)
  • 1999年10月3日 パラダイスTV収録「SM匠の世界 #1 〜長田英吉の世界〜」
    海外でテスト販売されてるそうです。長田英吉、早乙女宏美、小澤一美(=長田一美)
    山のような荷物を送って、プロデューサー氏を驚かせた先生。はりきってました。
  • 1999年11月26日〜2000年6月2日 六本木のSMショップ「セビアン」経営のSMパブ「ミストレス」にてSMショー
  • 12月17日より同じく「セビアン」経営のSMパブ「マスターズ」にてSMショー
  • 2000年2月11、14、16、18、20日 船橋若松劇場で公演(小澤一美(=長田一美)と)
  • 2000年4月1日 阿佐ヶ谷駅前アピカにて(「SMART」第1回目)SMショー(小澤一美(=長田一美)と)
    時間が20分でやるように言われてたんで正直に20分のショーをやった。他の出演者は時間オーバーしてたから「俺ももっとやればよかったかなー」とブツブツ。少しでも多くショーをやっていたかった長田先生でした。
  • 2000年4月15日(土)から2000年9月30日(土)スタジオ6(豊島区東池袋)で毎週土曜日SMサークル。その中で毎週SMショー(小澤一美(=長田一美)と)
  • 2000年10月1日 オサダ・ゼミナールスタジオ設立
    毎週土曜日のSMサークルの中でSMショー(小澤一美(=長田一美)と)
  • 2001年1月13日(土曜日)
    ショーの途中で平衡感覚がおかしくなりながらもショーを見に来た人に支えてもらいながら最後までやり続けた。ショーとしてはダメだったが長田先生のショーにかける情熱を感じた舞台だった。
  • 2001年1月20日(土曜日)
    言葉が不明瞭にしか話せなくなっていたけど、自分の会だからとスタジオに来ていた。血液の流れ次第で調子が変わる。先週の反省からか「みっともないから」とSMショーを他の人に任せるといってショーをそばでみてた。けど、じっとしていられなくなってラストシーンだけ出演。
  • 2001年1月20日の22時頃 小澤一美(=長田一美)がタクシーで玄関まで送り、ドアを開けたところまで見届けたが長田先生は朝発見されるまで玄関で倒れてたという。
  • 2001年1月21日から入院 9月12日 没
    入院中、何度も抜け出そうとしたという。ショーをやるんだという思いで、スタジオに向かおうとしてたという。ショーをやることは長田先生の人生のすべてだった。

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